はじめに
僕の母方の祖父は大学で英語を学び通訳となり、のちに地元の公立高校の英語教師に転じたという。
母は、そんな人の娘であるから自分も英語が得意なのだろうと大学で英米文学を専攻し、フォークナーを卒論に学位は取るまでには至ったものの、英語に対する苦手意識が抜けず、ことあるごとに「学位は返上したい」と繰り返している。
そして、そのような人びとの孫であり息子である僕はどうか。
「もしかして隔世遺伝とかで英語の才能があったりするのかもしれない」などと淡い期待をいだきつつ、といって一生懸命に勉強をするわけでもなく、「ある日めざめたら突然英語がペラペラになってたりして」みたいなとんでもないことを考えたりして洋楽を子守唄にスヤスヤよく眠っていたことを昨日のことのように思い出す。
もちろんそのようなことは決して起こらず、長じてセンター試験では見るも無残な点数を取るに至ったのであった。
そんな英語超劣等生の身であるにもかかわらず、英米の短編を翻訳し、いくつかは公開もしている。そりゃまあ、辞書を傍らに時間をかければ多少は読めますからね。そもそも僕が読んでいるものにはたいてい先訳があるので、カンニングペーパー代わりに使えるわけだし(逆に言うと、邦訳のない洋書を先んじて見出したりするようなことはほぼなく、原書から読んだ作品はコミックを除けばほんの数冊である。理解も怪しい)。
英語で書かれた元の文章と、先人の日本語訳を並べ、もともとの作家の意図、原文のリズム、文化の違い、翻訳者の苦労、ときおりの誤訳などを眺め比べることに、多少なり興味深さを覚える。
そしてそうこうしているうち、翻訳家や学者の訳し方に難癖をつけるつもりはないが、なかには「こう訳したほうがいいような」「こういう訳で表現したい」というようなところが出てくる(それに、誤訳ではないかというようなものはそこそこ見つかる)。
そうなると「翻訳とは結局母語の問題なのだ」と、自らの英語力を棚に上げ、“自分のバーション”も出しておこうとなる。
本邦において「趣味」というと、全身全霊でうちこみ一家言持つまでに自らを高めるとか、なんかそんな求道的なニュアンスすらある言葉だが、僕のこれだってまあ「本来的な意味で」というエクスキューズをつけて「趣味」といっていいだろう。
このブログでは、そんなささやかな趣味に関する備忘を記録していくつもりである。